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大島渚 (1932-2013 )監督作品はあまり観てません。

機会がなかったこともあるけど、ぼくが洋画に狂ってた中学生時代〜社会人でのリアル・大島渚は、テレビのワイドショーのコメンテーター常連で、歯に衣着せぬ過激発言が売りで、常に怒ってる印象。映画監督というより、映像作家というより、テレビタレントでエキセントリックなおっさんという感じ。

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時代が今、令和になってまた日1日と、昭和が、そして決して忘れてはいけないはずの「戦争」の事実と記憶と、それらを産んだ日本というもの、日本人というものの考察が薄れていくなか、やっと、タイミングが合って観賞することができました。

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大島渚=エキセントリックなおっさん。

まさにそうなんですが、彼の根底には社会・国家・人種・人権・性などに対して迸るような憤りが常にあり、それを60年代から延々と、自身の監督作品にぶつけてきました。だからすなわちエンターテインメントとか娯楽とかで語られる映画ではない、でもしかしそこには人間を見つめる確実な眼差しがある。ろくに大島渚を知らないくせに、それだけはぼくにも分かる気がします。


このサイトで今まで紹介した大島渚監督作品は ↓ この1本だけ。

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「絞死刑 (1968)」

 ↑ 実際の事件をもとにした在日朝鮮人による殺人、死刑判決、死刑制度の是非、冤罪の可能性、これらを東京拘置所を舞台に、ほぼ密室劇でブラックユーモアに描いたこの作品を、ぼくは苦しくなりながら観賞しました。監督の手法、役者の演技(過剰)、そして何より監督が描いたその時代が、その時代なら当たり前に論議できただろうこと(国家と個人、貧富、国籍)が、当然今でも論議できる対象であるにもかかわらず、当時の熱が分からないので伝わらなかったから。

今回「飼育」を観賞中、この飼育はきっと、「絞死刑」でそうゆう時代性にフォーカスしすぎて、失敗したかもという反省?みたいなことを踏まえ、作られたものだと勝手に思いました。


「飼育」凄いんです、素晴らしいんです。


が、「飼育」のほうが先、1961年。 「絞死刑」は1968年。

ここに何かが隠されている気がします。「飼育」のほうが先だった、監督はギリギリ20代だった、他にもいろいろある気がしますが、その考察はもっともっと大島渚の作品に触れてから、また考えていきたいと思います。


もう1本、公開当時に観ていたのがあります。

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ぼく高校2年生。満員の劇場、いっちょまえに彼女とふたり、立ち見でした。

これ是非いつか再見したいのですが、公開当時の宣伝に乗せられて、ぼくは単なる戦場アドベンチャー的な映画だと思い込んでいて、だってYMOの坂本龍一出てるわ、デビット・ボウイがなんで!?、さらにまだまだ映画監督にはなっていない漫才師、ビートたけしですから。なのに暗い重い映画でした。そして、そこに埋め込まれている「戦争」というもののメッセージが、さっぱり理解できていませんでした(高校生のデートには相応しくない笑)。


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「飼育」、原作はのちにノーベル文学賞を穫る 大江健三郎 (1935-)。彼の初期、20代前半、芥川賞受賞作です。小説は未読ですがあるサイトによると、小説は村の少年の眼線で描かれているらしく、この映画でも多くのこどもたちが「大人」「ムラ」に翻弄される様はありますが、映画は群像劇として、そのムラに起こったことをリアルに魅せていきます。

昭和20年、第二次世界大戦末期。長野県のある山村。冒頭、険しい山道を往く大勢の村人たち。そのなかに、恐らく村人が仕掛けた金属製の罠で足を負傷した黒人がいます。黒人は米軍パイロット。これもたぶん墜落、パラシュートで脱出したものの、それを村人たちに嗅ぎ付けられ、捕獲されてしまったのです。

無抵抗で足から血を流し続けている黒人兵を村の中央に運び込みます。集まる村人たち、これもたぶん、初めて生で見る「外人」。そして口々に「黒んぼ」と彼をなじりつつ、その処遇をどうするのか?議論になります。

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先行して遠く離れた役場に報告&指示を仰ぎに向かっている村人を待つ間、とにかくこの黒んぼを納屋に閉じ込めることは暗黙の了解。しかしその世話、特に食事や排泄を誰に担当させるのか?で村人同士言い争いになります。で誰も黒人兵の足の金具を取り外すことも、ケガの手当も頓着しません。最初の時点であくまでも黒人兵は、「捕虜」でもなく(捕虜ならジュネーブ条約という、捕虜扱いの国際的取り決めがありますが、そんなこと誰も知りませんし、村に警察機関もありません)家畜?虫?まるで今まで見たことがない存在だから見えないけれど、何故かそこに居るからどうしよう?みたいな議論になっていくのです。

恐ろしい。

でもこれがこの村の論理。この村で産まれ育ち、同族同士の血のつながりを広げ、他者を廃し、発展して来たこの村こそ、見方を変えるまでもなく「ムラ社会」日本の、日本人の縮図でもあるわけです。

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先に述べた「絞死刑」と違い(そこに出ていた役者が多く重なっていただけに)この「飼育」における出演者のアンサンブルは見事です。例えば「本家(ほんけ)」として、血筋を理由に君臨する村の長・三國連太郎 (1923-2013) なんか、特異なモヒカン頭姿でいくらでもキチガイに演じられるのに、かなり抑えてます。そう、デフォルメしすぎてないのです。

ぼくの大好きな 山茶花 究(さざんか・きゅう 1914-1971)にしたって、ぼくが観たほとんどの作品は脇役で出番少なめだったのに、ここではいっぱい出て、真剣にシリアスで、全然遊んでない気がする。

本当にそれぞれの役者が、血のつながりを意識し、そのつながり故の愛憎をしっかりと理解し体現している。そんな気がしました。

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長廻しが多いです。フィルム一巻、確か12〜13分だったと思うのですが、カメラも出演者も(派手ではないけど)動きつつ、ワンカットで見せていく場面がいくつもありました。そこにたくさんの子どもたちも混ざり、しかし緩さがない。きっとそれが大島渚の演出力であり、執念であるんじゃないかと。

「排他的ムラ社会」を物語の中心に据えたものとしては、ここでも絶賛した「砂の女 (1964)」監督 勅使河原宏  がありますが、もちろん「砂の女」も大傑作ですけど、村人たちの交錯する感情は、この「飼育」のほうがえげつなく、鋭い。ぼくはそう思います。

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他にもたくさん述べたいのですが、このへんにしておきます。好き嫌いはあるかと思いますが、傑作です。残念なのは当時の録音技術の問題。そして古い映画(とくに方言芝居)によくある台詞の聞き取りづらさ。人物の名前や相関関係を摑み取るまで、ちょっと時間がかかりました。

黒人兵に台詞はほとんどありません。

村人たちに飼育され、兵士としても人間としてもリスペクトされないまま物語は進みます。

やがて村で様々な災厄がおこります。そしてそれは、黒人を飼っていることで引き起こされたものだと村人たちは考えはじめます。

さあ、このあとどうなるのかは、あなたの眼で。



2019年 9月4日 ラピュタ阿佐ヶ谷

戦後独立プロ映画のあゆみー力強く PARTlll で観賞

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おすすめ&参考サイト

社会的考察→映画収集狂

https://sentence.exblog.jp/12720578/

酷評→昔の映画を見ています

https://mukasieiga.exblog.jp/13382120/


タイトルバック(冒頭の3分) YouTube

https://www.youtube.com/watch?time_continue=4&v=74j_7gzgDpc