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49分のドキュメンタリー。

戦後(被爆)10年の広島、長崎。

街は復興が進み、おしゃれな洋服姿の男女が行き交っています。しかしその一方で、被爆後遺症に苦しむ人たちがいます。白血病で若くして亡くなる人、一家心中を考えながらやむなく闘病生活をする父親、顔や腕のケロイドを隠して職場通勤する女性・・・。

ドキュメンタリーを定義するとき、そこにカメラがあることが被写体・対象者にとって不自然であり、その撮り方、撮られ方、また音楽やナレーションによって、それが本当にありのままの映像なのか?が問われることがあると思います。

例えば対立する事柄を見せるとき、どっちの側に立っているのか?など、それが恣意的か意図的かで「ありのまま」の見え方は変わってきます。

ドキュメンタリー映画の多くで、「ありのまま」なんてきっと存在しないかもしれません。しかし物事を構築すること、作品として提示することの意義は計り知れないものがあるはずです。多くの人にとって「知らない」世界を見せること、喚起すること。映画の持つ力は誤れば、それはプロパガンダになり得る一方、真摯に映し出す、その姿勢がフィルムに焼き付けられていれば、それは真実になるとぼくは信じています。


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いきなり長くなりましたすみません。

原爆後遺症に苦しむ人たちの姿を、淡々と見せていくこのドキュメンタリー。そこに怒りや告発はありません。生きるという姿が数々と映し出されていきます。そしてその姿をある意味「晒す」ことで、当時アメリカとソビエトで応酬していた水爆実験への反対意志を表していくのです。映画のラスト、ある母親が被爆により変形した娘の手首をロウで形どり、それを長崎の原爆資料館に寄贈したエピソードがあります。そうしたことによって、母親は世間から非難されたそうです。

「原爆を売り物にするのか?」

散々言われたそうですが、母は愛娘の手首こそ、原爆を忘れないモニュメントになり、後世に伝えるべきことだと意志を通したのです。そんな母娘が手を取り合って歩いていく後ろ姿で作品は終わるのですが、つまりドキュメンタリーとは「記録」であり、残すべき「記憶」なのだとしみじみ考えた次第。

一番上の写真に映る母娘がその二人です。


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当時のプレスシート。ここに載せられなかった部分に、監督・亀井文夫 (1908-1987)さんが、この作品に向き合った様子が書かれていました。以下、長いですが採録します。



『いのちの尊さを 亀井文夫』

ほんとに「生きていてよかった」のだろうか。 

原爆に傷ついた人たちの悲惨な身の上話を録音機に取りながら、私はいくたびそう思ったか知れません。

私がこの映画を作ったとき一番苦労したのは撮影に入る前でした。この人たちにカメラの前に立つように頼みこむことでした。一番かくしているところを、何百万という人に見せるのですから割り切れないのは当たり前です。しかし、そのうち身の上話を涙を流して聞いている私たちを、自分たちのほんとうの味方だと信じてくれるようになりました。この人たちも、私たちも、原水爆を二度とこの地球上に落としたくないという気持ちが通じ合ったのです。そしてテープ・レコーダーに十五時間以上も録音してから撮影に入りました。

それでもいざ撮影となると約束とちがい、傷を受けてないほうの横顔をカメラに向けてしまうことがありました。 ”ケロイドのある方の顔を向けて下さい” と言わねばならぬ私も辛い思いでした。

しかし、どうしても出てもらえなかった人もいます。

原爆のために自分は片腕を失い、たった一人の子供といっしょに生活保護を受け、片手間に行商をしているお母さんに会いました。 第一回の原水爆禁止世界大会のとき、外国の代表者が自動車を連ねて見舞いに来ました。貧しい人たちが住む広島の市営住宅なので、たちまち大変な人だかりです。 その後でパッと ”きっと沢山見舞金をもらつたんだろう” という噂や ”原爆の傷を売り物にしている” という非難が起こりました。 ”生活保護が危うく打ち切られそうになりました” ”映画に出たら何と言われるのでしょう” と言うのです。

しかし私は何度も訪ねました。終りにはいつ行ってもいないのです。近所の人に聞くと夜中過ぎに帰ってきて、明け方に出てしまうのだそうです。私は無用の苦しみに会わせてしまった事を後悔しました。 ところが広島の撮影を終えて長崎に出発する日、駅にかけつけて来たのです。

「どうしても出演する気持になれませんでした。でも二度と私のような悲しい目に会う人をなくすために、この映画のできることがどんなに大切なことかは、よく判っていました。このままお別れできなくてやって来ました。どうかよいものを作って下さい」

と、菓子包みを車窓に差し出しました。私は涙でいっぱいのこのお母さんが、フォームに遠くなる姿を一生忘れることができないでしょう。

私が、この映画で皆さんに伝えたかったこととは「生命というものの尊さ」とか、「懸命に生きようとする人間の美しさ」ということです。

私たちは、毎日ちょっとしたことに腹を立てたり、気をくさらせたり、 ”人生なんてつまらない” などと思い初めます。そういうことがどんなにバカバカしく愚かであるか。世界で一番不幸な目に会った人たちの強く生きようとする姿から、どうか感じとっていただきたいと思います。

(原文 ママ)


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ソフト化されてないようです。でもこうして観る機会があったのは良かった。残すべき1本でした。



生きていてよかった (角川文庫)
相田 みつを
角川書店
2003-06-25





2019年 9月4日 ラピュタ阿佐ヶ谷

戦後独立プロ映画のあゆみー力強く PARTlll で観賞

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